ここでは、酒田五法を作り出した本間宗久の人生を紹介していきましょう。
江戸時代の日本は、世界に先駆けて米の先物相場が出来上がっていました。先物相場とは、商品の価格を安定させたり、商品の需給量の調整を行うために開かれる相場のこと。今でいう商品先物と同じような取引相場です。そして、驚くことにここではすでに、ローソク足が発明され、罫線法という、いわゆるチャート分析法も編み出されていたともいいます。徳川幕府の強固な国内統一や鎖国体制によって、日本国内の治安、経済は安定したことによって、当時の日本は経済的に最先端を走っていたといえるでしょう。
そして、その先物相場で百戦連勝、相場の神様といわれ、今でも現代に通じるチャート攻略法である「酒田五法」を作り出したのが本間宗久なのです。
本間宗久は今をさかのぼること280年ほど前、江戸時代後期の1724年(1717年の説もあり)に出羽国庄内(現在の山形県酒田市)にて生まれました。
生家は「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた酒田の豪商で大地主、本間家です。宗久はこの本間家の初代当主・原光の五男として生を受けました。
宗久が初めて相場を張ったのは、本間家二代目当主である兄の光寿から本間家の営業を託されていた時代(1750年頃)。本間家があった酒田は出羽米(今の庄内米)の一大生産地であり、宗久は当然のように米の売買と投機に手を出すようになります。宗久は米相場の研究を始めて実践に移しましたが、買えば当たり、売れば当たりでわずかの間に数万金の利を得たと伝えられています。
その後、兄の光寿が世を去り、甥にあたる光丘が三代目当主となります。宗久は光丘とはからって大量の庄内米を売りに出す一方で、京都と大阪の米会所(米相場)を舞台に米相場に挑みます。当時の実家の本間家は二十五万石ともいわれた豪農でもあり、米の現物を背景にした上、作柄情報が刻々と入るという恵まれた環境に加え、宗久は天才的な相場師でもありました。記録に裏付けられた合理的な作柄の豊凶予測とともに、大胆不敵で進退自在な攻防によって、仕手戦に花を咲かせ、連勝記録を打ち立てていきます。常勝腐敗の記録を打ち立てた宗久は巨万の富を築き、"出羽の天狗"と讃えられるまでになっていきます。
関西市場を席巻して、相場の神様と騒がれた宗久は、いよいよ江戸へと乗り込みます。そして、ここでもスケールの大きな売買を展開し、天才的相場師の面目を発揮して空前の巨利を得ます。宗久は生涯で現在のお金にすると1兆円以上になるともいわれています。かくて、天才の名声と巨万の富を得た宗久は、江戸根岸に豪邸を構えて悠々自適の生活を送りましたが、晩年は幕府の財政指南役として相談にもあずかっていたといいます。
そして、その本間宗久の相場観を元に作られた必勝法が、ローソク足の組み合わせからチャートを読み解く「酒田五法」です。日本では欧米でチャートが生まれるはるか昔に、優れた罫線法を作り出されていました。本間宗久は、その罫線に見え隠れする投資家の心理状態を読み、相場の必勝法を生み出していったのです。酒田五法は、本間宗久の相場伝を元にして、後世の人々が、わかりやすいローソク足を使った法則に変化させながら、発展していきました。
私たちは、酒田五法の普遍性を、今でもさまざまな酒田五法のパターンを、株価や為替、先物などさまざまなローソク足の中に簡単に見出すことからも確認できます。
現在では、ローソク足自体もキャンドルスティックの呼び名で、世界中の投資家にとっても一般的なものとなりつつあります。世界中の投資家に酒田五法が浸透するときがくる日も、そう遠い未来ではないかもしれません。










